入門:オウム真理教

はじめに

オウム真理教に関連する一連の事件については、まず何よりも被害者の方々とそのご家族に対して、心からの謝罪とお詫びを申し上げたいと思います。あの悲惨な出来事がもたらした苦しみと痛みは、決して忘れられるものではなく、私たちにとっても重く受け止めざるを得ない事実です。

一方で、麻原彰晃の教義が『殺人の教義』とみなされ、団体そのものが殺人集団のように見られてしまっている現状に対しては、深い遺憾の念を抱かざるを得ません。かつての教義が誤解され、あるいは歪んで伝えられてしまった結果として生じたこの認識を前に、私たちには今一度、本来の教えとは何であったのかを丁寧に伝え直していく責任があると感じています。

今回のブログでは、改めて麻原彰晃の教義を正しく知ってもらうために筆を執りました。事件の衝撃とその後の社会的なイメージによって、多くの人々が教義そのものを『危険』や『悪』と即座に結びつけてしまう状況が生まれています。しかし、私たちがここで伝えたいのは、当時の教えがどのような背景や意図のもとに生まれ、何を目指していたのかという、その原点に立ち返ることです。

読者の皆さんにも、どうかこの思いを受け止めていただければ幸いです。

宗教の区分

世界には、様々な宗教が存在します。ある宗教があったとき、その信仰は「実践型」でしょうか?それとも「依存型」でしょうか?
宗教には大きく分けて「実践型」と「依存型」の2つのタイプが存在します。

実践型宗教は、教えを深く学び、それを日常生活の中で実践することに重点を置きます。

  • 教えを学ぶ: 経典を読んだり、説法を聞いたりして、教えの内容を理解する。

  • 教えについて考える: 学んだ教えを自分なりに解釈し、その意味を深く考える。

  • 教えを実践する: 学び、考えた教えを、日々の行動(身・口・心)に反映させる。

つまり、実践型宗教では、教えは単なる知識ではなく、自己成長のためのツールなのです。

一方、依存型宗教は、教えの内容や実践よりも、信仰の対象(神仏、教祖など)に依存することに重きを置きます。

  • 教えはあるが、実践しない: 教えは存在するものの、それを日常生活で実践することは重視されない。

  • 信仰対象への依存: 信仰対象に祈ったり、すがったりすることで、安心や救済を求める。

依存型宗教では、教えは自己成長のツールというよりも、心の拠り所としての役割が大きいと言えるでしょう。

オウム真理教は、明確に前者、実践型の立場を取ります。
依存型宗教では、その教えによって自己を成長させることはできません。そのため、真の幸福を得ることはできない。実践的な修行を通して真の悟りを目指すことを、オウム真理教は重視します。経典を読むだけでなく、実際に修行することが重要と説きます。

幸せについて

私たちは普段、どんなものに「幸せ」を感じるのでしょうか。
幸福とは一体何なのでしょうか。恋愛、グルメ、ファッション、スポーツ、旅行……。そういうものが手に入れば「幸せ」だと感じるかもしれません。幸せになろうとして私たちが手に入れたいと考える対象は、モノだけではないでしょう。たとえば地位や名誉、安定した生活といった「状態」を手に入れれば、私たちは幸せだと感じることでしょう。

いろいろな「幸せ」がありますが、共通しているのはどれも、私たちが希望するものが手に入ったとき、あるいは私たちの希望する条件が満たされた時、私たちは幸せだと感じることだろう、ということです。言い換えれば、私たちは「自分が持っていないものを手に入れたとき幸福と感じる」ということになります。

ここで一つの厳しい現実にぶつかります。
それは、「この世のあらゆるものは有限である」ということです。

地球上の資源、食料、化石燃料、これらは限りがあります。会社のポストや地位なども、だれもが望んだとおりに手に入れられるとは限りません。
その一方で、欲しいほしいという気持ちは、どんどんエスカレートします。

欲求を分母とし、実際にその欲求がどれだけ満たせたかを分子で表わしてみましょう。そうすると「幸福度」が計算できます。例えば、欲求がすべて満たせれば、幸福度は100%ということになりますね。
しかし厄介なことに、欲求の対象には物理的な限界がある。だから、常に100%欲求が満たせるとは限らない。一方で、分母の"欲求"は際限なく増大していってしまう。これを手に入れたらあれも欲しい、と感じてしまう。その結果、幸福度を100%に保つことは、ほとんど不可能なのです。

そこで、逆転の発想として、欲望をセーブすることが必要です。

私たちが欲望の追求によって苦しみを味わうのであれば、欲望そのものが苦しみの原因ということになります。とすると、それを上手にコントロールして、小さくしていけばいいはずです。
大きくなり続ける欲求(分母)をどんどん小さくしていったとすれば、分子が同じでも幸福度はどんどん高まっていきます。さらに分母を小さくし欲望を極限までゼロに近づけていけば、幸福度は極限に大きくなります。

心が欲望から解放されたとき、私たちは極限大の幸福を感じることができるようになり、心の安定がもたらされるのです。修行で得られる幸せとは、自分の奥底にもともと内在している幸福です。

オウム真理教では、欲望から解放されたときにもともと内在している、自由からなる幸福こそ、素晴らしいと説いています。オウム真理教であれば、この幸福を手に入れることができるのです。

逆にオウム真理教では、現世幸福を得ること自体はあまり重要ではないという方針を取っています。

私たちの普段感じる自由・幸福・歓喜というものは、外的な環境や情報に依存しているが故に、絶対的なものではないのです。
それに対して、修行によって得られる絶対的な自由・絶対的な幸福・絶対的な歓喜の状態は、自分の内側で完結し、外的な環境に依存していないが故に、絶対的であると言えます。
そしてその絶対的な自由・絶対的な幸福・絶対的な歓喜の状態、それが、私たちの修行の最終目的である離解脱であり、
これは同時に、この宇宙(愛欲界・形状界・非形状界)を超越することを意味するのです。 オウムビデオ 大宇宙の構造

オウムビデオ大宇宙の構造

苦しみの本質とは

では、別の視点から話をしましょう。
この無常の世界において私達が味わう苦しみは三つに分けられます。

第一が「苦しみの苦しみ(苦苦)」です。これは、心や感覚で直接的に感じる苦しみです。喜びを求める心があるがために、そうでない場合、つらく、厳しいことだと感じられます。

第二は「悪い経験の構成の苦しみの本質(行苦)」です。これには、求めても得られないという苦しみも入ります。また、悪い経験の構成といえば、過去の経験から推測して、悪い結果を生み出すのではないか、という否定的想念によって苦しみを感じる場合もあります。

第三は「悪化の苦しみの本質(壊苦)」です。これは、一度手に入れることのできた喜びを手放さなければならない苦しみです。

私たちがこの世界で喜びを求める限り、必ずこの三つの苦しみを経験しなくてはならないのです。苦しみはどうしてもついて回るものなのです。

この世というものは、基本的に無常です。
この世の中の全ての現象は変化し続けているのです。そして、わたしたちの体も、老い、病にかかり、死を迎える。この世界には、一つとしてとどまり、永遠に変化することがないものなど何一つ存在しません。それに伴って私達は、壊れるものに執着し、苦しみます。

最終的には死が待っています。死なない人というのは存在しません。
どんなに大金持ちであっても。どんなに権力を有していても。どんなに周りから賞賛されていても。どんなに愛する対象といっしょに生活していたとしても。人は、死に対しては一切が無効です。

では、私達はどう生きればよいのでしょうか?

仏教では、我々の外側には、最終的にこれらの苦しみに繋がらない喜びはないと説く。
結局、外側の幸福を作り出すすべての要素は、私たちに瞬間的な喜びと、そのあとにくる膨大な苦しみとを、セットで与えてくれるのだ。

オウムビデオ 外側と内側の幸福 前編
オウムビデオ 外側と内側の幸福 前編

私達はどう生きるか

私は経済や科学の発達を否定しようとしているのではありません。ただ、現代の社会では知性は進歩していますが、人間の欲望も際限なく膨らんでいる。物質を得ることで心の平安が得られるなら問題はありませんが、それによって不幸になるようでは困るわけです。

麻原彰晃の世界PART3 「これが尊師!」

私達がこの世を自由自在に生きるためには、釈迦牟尼の説いた原始仏教・原始ヨーガを正当に実践し、この世の苦しみから解放され、絶対的な幸福を得ることが必要であると、オウム真理教は説いています。
実践・修行により自我を滅し宇宙の真理を悟ることで、絶対的幸福が得られるといいます。

釈迦牟尼という言葉が出てきました。釈迦牟尼とは、仏教の開祖として知られているガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)のことですね。サキャ神賢とも呼ぶことがあります。
しかし、ここでお伝えしたいことがあります。それは、釈迦牟尼は仏教という言葉を使っていない、ということです。
驚かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、仏教というものは、釈迦が亡くなられた後に弟子がまとめたものであり、そこで初めて「仏教」という言葉が登場するのです。

では、釈迦牟尼は何を説いていたというのでしょうか。それは、「真理」であるといいます。その中で実際に、ヨーガを実践していたという記録も残されています。
例えば、釈迦牟尼の見せた神通力に、自分の身体の下は水、上は火という状態で空中浮揚を行なったというものが残されています。これは、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』に載っている表現と、ちょうど一致しているのです。
オウム真理教では、今から2500年前に釈迦牟尼が説いた教えにこそ、全ての教義が内在していると考え、その教えを大事にしているのです。

オウム真理教の特徴の一つは、経典研究にあります。というのは、宗教において教義は命であり、仏教団体にとってはできるだけ仏教開祖の釈迦牟尼(サキャ神賢)の教えを正確に伝えている経典を収集し、正確に翻訳することが必要不可欠だと考えているからです。

チベット密教で有名なチベットの仏典『チベット大蔵経』、それに、釈迦の最初期の教えを純粋に伝える唯一不可欠の経典とされていますパーリ仏典、および『南伝大蔵経』。それからまた、世界中のいろいろな聖者の方々が著わした英語の経典ですね、そういったものを可能な限り収集しております。

この膨大な経典を、できるだけ迅速に翻訳するために特別チームが組まれておりまして、例えば自動翻訳や、その他のコンピュータ処理などといった現代技術を取り入れて、迅速に、大量に、正確に翻訳し、内容を把握しようと。で、こうして訳された経典は、いろいろな形で、一般の方々、そして信徒の方々に提供されています。もちろん、書店に書籍として並び、そしてオウム真理教の支部活動等で、尊師の説法、その他成就者の説法の中で現わされます。
(1991/9/28 テレビ朝日 朝まで生テレビ)

上祐史浩/マイトレーヤ正悟師

“真理”というのは何かというと、これはお釈迦様も仏教をお説きになったわけではないんです。というのは、お釈迦様が弟子たちに説法をなさったときに、これは「絶対の真理」であると、そして「真理」とは「苦しみ」、「苦しみの生起」、「苦しみの滅尽」、「苦しみの滅尽に至る方法」であるという言葉を使っていらっしゃるわけですね。ですから、当然原始仏教と同じ法則を説く場合、それは仏教ではなくて「真理」でなければならないということで、オウム真理教という命名がされたわけです。

(九二年六月十七日・東京大学)

何故オウム真理教でないといけないの?

それでは、何故既存の仏教ではなく、オウム真理教が存在するのでしょうか?それは、既存の仏教では、意味が曲解されているおそれがあるからです。

(質問) オウム真理教ではチベット語やパーリ語の仏典の翻訳をされていると聞きましたけれど、日本には昔からたくさんのお経があるのに、なぜ今オウム真理教でそのようなことをされているのでしょうか。

なぜ日本に漢訳の仏典があるのに、漢訳から訳さないのかということですね。実は、漢訳の仏典についてもある程度の翻訳はしています。

しかし実際問題として、漢訳だとサンスクリット語が中国語になり、中国語がそのまま移入されると。ところが、この中国語というのはクセモノで、その意味というのは時代によって変わってくると。とするならば、サンスクリット語→中国語→日本語という流れはあまりにも訳者の意図が入りすぎているがあまり、本質が理解できないということになるわけですね。

よって原典といわれているパーリ語の最も完成された形で残っているスリランカの経典、パーリ三蔵の翻訳、あるいは、その経典の教えから多くの成就者が出、その成就者によって展開されたタントラ・ヴァジラヤーナの教え――これはチベットに伝わるわけですが――その教えを翻訳することによって、世界の仏教の本質というものを探ろうとしているわけです。

結論からいうならば、この〝探る〟という言葉は正しくないですね。わたしも多くの真理勝者の弟子だった生があります。例えば、例を挙げるならばヴィパッシー真理勝者だとか、あるいはカッサパ真理勝者だとか――わたしの前生では、カッサパ真理勝者のとき、わたしとサキャ比丘は法友だった生もあるわけです――そういう前生の流れから、今日日本に伝わっている仏典というものは、衆生の済度に役立っていないというのがわたしの見解です。
(一九九二年六月二十一日・大阪阿倍野区民ホール)

麻原彰晃 尊師に聞く!1

つまり、現在の仏教では、釈迦牟尼の説いたそのままの教えを知り、実践することができないのです。したがって、パーリ聖典やチベット大蔵経などを参照し、原始仏教の本質をしっかり伝える必要があるのです。

オウム真理教では、先程の解説の通り麻原尊師が自ら中心となり、サキャ神賢の教えを最も忠実に伝えているとされる南伝仏教のパーリ聖典・チベット大蔵経の原典から翻訳を行っています。

オウム真理教の名前の由来、そして目標

(質問) オウム真理教と仏教の関係がちょっとわからないのですが、そのあたりを教えていただけますか。

麻原 「オウム真理教」というのはまず、宇宙の本質的な創造・維持・破壊、これを〝オウム〟という言葉で表わしています。つまり、無常を表わしているわけですね。そして、〝真理〟というのは、サンスクリット語でサティアン、パーリ語でサッチャというんですが、絶対的な叡智を表わす。

なぜ何々宗とか仏教という言葉を使わないかというと、先ほども申し上げたとおり、いまの日本には真の仏教が伝わっていないと確信を持ってますので、仏教という言葉を使うと逆にその教えが広めづらくなる、そう考えて「オウム真理教」という名前を使っているわけですね。また、お釈迦様が初めて衆生にダルマ(=教え)をお説きになった初転法輪、これは『真理相応』というお経の中で示されてますが、その中でも要するにお釈迦様は「これが仏教である」とは一言もいってらっしゃらない。「これが真理である」といってらっしゃるわけです。ですから、仏教の教えを説く場合、やはり〝真理〟として説くべきであるというのがわたしの立場です。

麻原彰晃の世界PART3 「これが尊師!」

オウム真理教の「オウム」とは、宇宙の本質的な創造・維持・破壊を表現します。つまり、先程の「無常」を名前として表現しているのです。
また、仏教ではなく、真理を伝える宗教であると表現するため、真理教という言葉を用いています。
聖音オームが由来なので、興味のある人は調べてみると良いでしょう。

一言で言えば、オウム真理教は「釈迦牟尼・原始仏教の教えに則り、正しい行いと修行を行い、生まれてから死ぬまで、更に死後の世界すらも幸せに生きる」ことができるよう修行するための宗教となります。

しっかりとした確信を持ち、
しっかりと瞑想し、    
しっかりと功徳を積み、  
きること、

それのみが、
あなた方が真理と出会い、
     真理を生かし、
そして、
あなたの望む転生のできる
ただ一つの道
であるということを認識しなければならない。

なんでまだオウムやってんの?――謎を解く鍵

オウム真理教の基本的な考え方に、「三つの救済」があります。

第一に、病苦からの解放です。ヨーガ的・仏教的なものを取り入れながら病気の治療を行ない、その病苦から解放することをきっかけとして、真理に目覚めさせ、そして高い世界へと転生させるということを行います。
第二番目は、現世の苦悩からの解放です。これは、生き方のスタイルが間違っているがために苦しみが生じていることを知りそのスタイルを、少しずつ変えていくことにより、豊かな心と高い転生へ心を向けさせることを行います。
第三番目は、解脱・悟りへ至らせるための救済です。この救済は釈迦牟尼の説いた内容に沿い、十数段階の段階があり、複雑なため省略します。

この三つを展開していくために団体が必要であるとして、オウム真理教が存在しているのです。

また、私達に真に利益をもたらす宗教とは、以下の五つの柱を持っている宗教といえます。

【第一の柱:教義】
まず真の宗教の条件として必要不可欠なのは、「矛盾のない教義」です。

【第二の柱:修行体系】
これは、教義に則って修行を進めていくための修行体系が整っていることをいいます。実際にその修行体系に沿って修行していけば、だれでも実際に修行を体得できる必要があります。

【第三の柱:成就者】
これは、修行の各段階に到達した成就者が実際に居ることです。彼らこそ「修行をすればこんな体験ができる」という生き証人となります。教えや修行体系が「絵に描いた餅」ではなく、実際に実践すれば体験できるということを証明しているのです。また、修行を進める上で目標とすることができるでしょう。

【第四の柱:イニシエーション】
イニシエーションとは、単に法則を聴いたり、学んだりするだけでは理解することのできない神秘的な深遠な部分について、エネルギーを移入したり意識をチェンジさせたりして修行を進めさせることのできる特別な技法のことです。これによって、わたしたちは飛躍的に修行を進歩させることができるのです。

【第五の柱:正しい霊的指導者】
修行上の目的地に到達する上で、欠かせないのが正しい指導者(道案内人)の存在です。目的地に至るまでの道筋について精通し、どのように歩んでいけばいいかを的確に指導して、迷ったとき道を示してくれる人のことです。

これらの五つが揃っているものとして、オウム真理教が存在するのです。

オウム真理教と超能力

オウム真理教というと超能力が有名ですが、そういうものは本質的なものではないと考えているのですか。

はい、おっしゃるとおりです。超能力には二つあります。一つは、要するに煩悩を満たすために初期の段階で開発される超能力。要するに心の成熟しない状態で、煩悩優位の状態で現われる超自然的な力ということだね。これはオウム真理教では完全に否定しています。

そして、もう一つは〝超能力〟と呼ぶにはふさわしくない偉大な力、神通力です。こちらの力は、肯定しています。なぜなら、こちらの力は、心が成熟した状態で現われる、要するに神々の力だからです。

(九二年六月七日・新東京本部)

AUMPRES 麻原彰晃 「これが尊師!」

オウム真理教では、一般的な超能力を神通力と呼称しています。
実はオウム真理教の修行は、超能力を得ることを目的としません。多くの人がこれを勘違いしています。
神通力というのは、解脱を目指す過程で身につく神秘的な力です。そしてこれはあくまでも副次的なものです。つまり神通力は、解脱への道をうまく進めているかどうかを判断するリトマス紙に過ぎないということです。
ただし、修行を始めるきっかけとして超能力があると、修行を続けるモチベーションになることもあるでしょう。

今回参考にした書籍・ビデオ

今回の執筆にあたり、オウム真理教の教本・ビデオは、以下のものを参考に致しました。

  • オウム真理教公式サイトアーカイブ

  • オウム真理教 非公式サイト

  • 教本

    • STEP TO 真理 2

    • ベーシック・ダルマ

    • タターガタ・アビダンマ 第一誦品

    • マハーヤーナ・スートラ

    • 尊師に聞く!1 2

    • これが尊師!

  • オウム真理教関連ビデオ

    • 大宇宙の構造

    • オウムビデオ 外側と内側の幸福 前編

    • 入門オウム真理教



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